まぼろしのコンサータ
あまりのショックに憔悴して寝ついてしまったのだが、これはどうしても記録しておかのはならぬと、気力を振り絞って書いている。
今朝からコンサータ服薬予定だった。
ところが学校に報告したら(報告したのは2週間前)、昨日いきなり校長から電話がかかってきて、服薬をやめるように指示された。
「薬は自然に反する」からだそう。
しかも娘本人に、その薬は心配だから保護者に電話する、と校長が伝えていた。
何の権利があってー!
無理解にもほどがあるわー!
親子の信頼関係もズタボロです。心配な薬、なんて言われたもの、もう飲ませられないよ。
悩んで悩んで、調整に調整を重ねて、娘も納得して今日を迎えるはずだったのに。
支援計画立ててくれるわけでもなく、カウンセラーに繋げてくれるわけでもなく、
学校は何もしてくれないから、
自分で全部調べて、SSTもペアレントトレーニングもしてさ、そういうの経ての処方だったのに。
もう今まで治療のために試みていたことが全て台無しになった。どうすればいいの。どこに助けを求めたらいいの。
【コンサータ服用①】服薬に納得するまで
服薬を医師にすすめられて1年2か月。やっと
前回の受診でコンサータをもらってきた。
娘ちゃんも納得の上である。
最初の数日は親が子どもを見守れる環境を整えるべき、とのことで、来週末から服用を開始する。
↓のとおり、娘ちゃんは当初、服用をいやがっていた。
無理強いすることは絶対に避けようと思ったが、もしも服薬に偏見があるなら、それを取り除く努力をしたかった。
特に娘ちゃんは「薬を飲まなくてはいけない」=「劣っている」と思い込んでいる節があるようだったので、その誤解を解こうと思った。
その上で、やはり飲みたくないという判断をするなら、尊重するつもりで説明を開始した。
WISCの結果(数字)を具体的に提示し、平均よりも圧倒的に優れている点があることをまず伝えた。
人として劣ってなど決していない。
だが、苦手な部分が足を引っ張って、得意な点を生かせてていない。薬を飲むことで得意なことをさらに伸ばす助けになる、と。(何もかも解決してくれる魔法ではないけれど、と。)
自分はちゃんと優れている、と自信をもてたことで、服薬の抵抗はなくなったみたい。
思わぬ成果もあった。
人には誰でも得意な点と苦手な点があるということを理解し、お友達との関係でもその子の得意なところを認めながらつきあっていくと好い、ということに気付いてくれたよう。
どうなるかなー。
合う人と合わない人が分かれる薬だって言うからな-。合うといいなー。
娘ちゃんの一番の苦手は、課題への取り組み。勉強だけでなく、歯磨きとか、着替えるとか。とにかく声かけしないとできない。
今までは私が言い続ければやっていた。
しかし、いよいよ高学年。反抗の時期に入ったことを日々感じる。要は、親が言ってもきかなくなった。
この反抗期を何とか薬の力を借りて乗り越えられるといいな。思春期を脱すれば、自分で特性理解を深め、解決策を模索していけるようになるだろう。
主治医には「本人。両親とも服薬に抵抗がないわけではなく、とりあえず試してみたいというスタンスだ」という希望を伝えた。
週末は休薬のうえ、2週間後に再受診。
合理的配慮の葛藤
私は発達障害の子を育てる保護者であると同時に、私立中学高校の教員(ここ3年は講師)です。
発達障害の子を育てる保護者の方からの、学校の合理的配慮に関する不満は本当によく耳にする。当事者として、合理的配慮を求めるのは当然の権利だし、配慮しないのはもはや法律(障害者差別解消法)違反ですよ。
でも、いろいろは合理的配慮の事例を見ていると、これを現場で担任としてやらなくちゃいけなくなったら、ちょっと無理というか、つぶれてしまうだろうな…、と教員として思わなくも無い。
たとえば、文科省の公式ページに出ている次の例。
(出典:【資料3-1-2】日本の特別支援教育の状況について (mext.go.jp))
これ、本当に理想的な配慮だし、本来全ての困っている児童生徒にこれくらい丁寧な配慮がなされるべきなんだけど、なんだけど、担任に対応が一任されたらしんどいだろうな…。
現場の教員としてすぐに思い浮かぶ困難さは次の二点。
①「ズルい」「不平等」という声への対応。
そんなこという人いるのか…、と思われるでしょうが、実際、います。なぜなら、配慮される点が、それ以外の生徒の評価の対象となっているから。
よく、「合理的配慮はめがねをかけるのと同じ」と言われますが、やはり上記の配慮とめがねの使用とは異なると思います。「目をよく見えるようにすること」は教育の内容ではないし、評価にもつながらない。でも、「時間内にできる」「問題(漢字)を読める」ということは評価の対象になるので、そこが苦手でかつ配慮をうけられていない人は、不平等な扱いを受けたと感じてしまうのでしょう。進学がかかっていたりしたら、まぁ、当然ですよね。
加えて、合理的配慮に関する知識が不足している同僚教員から「甘やかし」とか「特別扱い」と指摘されて、後ろから石を投げられるような環境になることも、想像にかたくない。そうしたら、配慮を決めた担任は本当に辛い立場に追いやられてしまうよね…。
②対応する時間の余裕
「ふりがなをつける」ってたいしたことないように思うだろうけど、全てのテストに間違いなくふりがなをつけるのは大変な作業です。音声で録音することも、大変に時間のかかること。(まして、授業のプリントにも、となったら、6時間分につけて、プリントアウトして…、となれば毎日1時間くらいその子の配慮のためだけに使うことになる。)
過労死ラインをおおきく超えて、土日も部活で働いているコップから水があふれるぎりぎり(もうあふれながらやってる)現場の担任一人にそれを通年でやれといわれたら、配慮を求める保護者を責めてしまう気持はわかるんだよね…。間違っているのは重々承知なんだけど、というか法律違反なんだけど。
文科省の事例にははっきりと「全教員でプロセスを検討」って書いてある。結局、ここが要点なんでしょうね。担任一人にまかせず、学校全体で対応できるか否か。でも、こんな理想的な学校はなかなかなくて、理解ある担任だったとしても、その理解を学校全体に求めるために戦って、というところから始めなくちゃいけない。
だから、保護者の立場から配慮をお願いするときには、担任に頼むのと同時に、担任が動きやすいように上の人にも頼む、ちゃんと診断に基づいた配慮なんだということを他の生徒や保護者に伝えるようにする、ということを心がけている。
それが正しいことかもわからぬまま…。
でもゆくゆくは、社会全体として(当事者や教育現場だけではなく)発達障害や合理的配慮への理解が進まないと、合理的配慮にまつわる困難は解消されていかないでしょう。
あと、予算つけろや。何のバックアップもないまま、現場の頑張りと工夫だけでやらせないで。人&お金、な。
2021年5月、障害者差別解消法の改正法が成立して、障害者への合理的配慮の提供を民間の事業者にも義務付けることとなりました。いま、合理的配慮って現場ではどの程度浸透しているんだろう…。保護者として教員として、ちゃんと知識を深めなくちゃいけないな、とこれを機会に思った。
当事者(子ども)の服薬拒否にはどう対応したらよいのだろう
コンサータの服薬を主治医からすすめられるも、両親が抵抗を感じて、1年以上服薬を見送っていた。
いよいよ、娘の先送りぐせが生活に大きな影響を与えるようになり、夫も私も決断の時だと認識した。
主治医に相談の上、娘への伝え方も決定した。娘は自分では困り感をまだ客観的に認識していない状態である。その上で、
ポイントは次の通り。
- 検査結果を具体的数値として示した上で、「集中力が低いことで、本来の自分の力を十分に発揮できていない。お薬を飲むことで、力を発揮できるようになる。」と客観的に伝える。
- 「親が困っている。その困っている点を改善する為に飲む。」というニュアンスは避ける。
- ADHDの告知は行わない。
ということで、深刻にならない感じで、さらーっと伝えたのだが、
予想外に強烈な抵抗にあった。
やっぱり、何か、風邪や、副鼻腔炎の薬とは違う、ということは感じているらしい。この薬を飲むのを認めることで、自己認識がおおきく変わる、と思っているらしい。
「お薬なんて必要ないもん! そんなにお薬たくさん飲むなんておかしいもん! 娘ちゃん、言われなくてもちゃんとできるもん!」と叫んでおられました…。
あまりたたみかけるように説得しても、かえって意固地になるだけだと思って、それ以来数日間、薬の話はしないようにしているのだけど…。
本来、服薬の決断は本人にさせるべきだ。
でも、娘ちゃんはまだ、自分の障害について認識していないし、薬の効果についてもわかっていない。そういう状況では、将来の自分にとって適切な判断ができているとは思えない。
とはいえ、親が強制的に飲ませるわけにもいかず…。
当事者(子ども)の服薬拒否にはどう対応したらよいのだろう。
療育を受けなかったことを悔やまないで済む支援体制がほしい
幼少期の療育が極めて重要である、という情報を方々で目にする。
また、「療養が受けられていればよかったのに」と支援者に指摘され、年を重ねた当事者(や保護者)が涙するという話も。
うちも、小2になってからADHD傾向が指摘された口なので、困難が起きるたびに「あー、もし保育園の頃療育受けてたらどうなってたかなー」というのはいつも心の痛みとともに思わないではない。
でも、療育が受けられなかったことを本人や保護者の瑕疵のように指摘することは、あってはならないことだ。支援はやってきてはくれない。何もかももぎ取ってこなければいけないお粗末な支援状況で、療育が不足したことを後からタラレバで語ることは、当事者をひどく追い詰める。
このように思うには個人的な恨みもある。
保育園等から指摘されることはなかったが、私自身は娘の成長に心配があった。睡眠がスムーズでないことと、癇癪の激しさがあったからだ。そこで、1歳半健診のときも、3歳児健診のときも、保健師さんへの個別相談を申し込んだ。そして、娘の遊ぶ様子を観察してもらった。しかし発達に遅れがあると認識されることはなかった。
中でも3歳児健診の保健師さんの対応は今でも思い出すと涙があふれてくる。
「何が心配だというのですか。あんなにしっかりと遊べているではないですか。問題があるように感じているのだとすれば、母親が仕事ばかりしていて子どもが寂しがっているからです。」と指摘されたのだった。
当時私は私立中高の専任教員として、法定労働時間を大きく超える労働に従事していた。
保健所からの帰り道、泣けて泣けて、帰宅した夫にも泣いて泣いて、どうすることもできなかった。夫が翌日保健所に電話をして「根拠のない、しかし働く母親を傷つける指摘は慎んでほしい」と抗議してくれて、ようやく涙が収まったのだった。
当時のことは、忙しすぎて所々記憶が抜け落ちているのだけれど、あの日のことは強い胸の痛みとともに思い出す。
その後、娘の睡眠の不安定さが増す中で、私は退職した。このままではいけないと思って。
で、小2になって「発達障害の発覚」からの「いまさら療育受けられない」問題ですよ。
いいかげんにせーよー。
こんな話、私の場合だけでなくゴロゴロ転がっていると思うよ。障害の発覚が就学後というケースも少なくないだろうし。そんなに療育というのが良いものならば、心配な子は皆、どの年齢からでも、当然の支援として受けられるようにならなければ。
でも、現実はそうじゃない。医療的な診断があった後でさえ、児童発達支援センターにスムーズにはつながれなかった。自治体とセンターとに個人的に交渉しまくって、もぎとった療育。それも半年(6回)やっただけで、今、終わろうとしている(↓)。
発達障害の子を育てる保護者は、手探りで、子育てにたくさんの時間と労力をかけている。毎日試行錯誤しながら、最適解を探している。特性によって、得意不得意も、必要不必要も、全てその子によって違うから。
定型発達のお子さんを育てる方や、支援の方向性が見えるであろう知的障害のある方を羨んでしまうこともある(間違ったことだとはわかっていても)。もうこの子を殺して自分も死ぬしか無いと思い詰めてしまう時間もある。
発達障害児の育て方を保護者の責任だけに帰さない支援がほしい。子育てに伴走してくれる支援がほしい。一緒に最適解を考えてくれる専門家による支援を、支援を。それを心から望みます。
なんとかなってしまっている子への支援は?
月一の放課後等デイサービスによる支援が、来月で終わることになってしまった。
要は、障害の程度が軽いので、切られたのだ。
とても丁寧に対応していただいていたし、娘も喜んで通っていただけに、ショックである。
でも、わかる。
放課後等デイサービスには行政から金銭的援助が出ている。担当者も時間をかけてくれる。学校にも通えていて、知的な遅れもない娘ちゃんには、その貴重な資源は割けないだろう。
でも、娘ちゃんが困っていないわけじゃない。わすれもの、なくしもの、課題への取り組めなさ…。必死でいろいろと(保護者が)工夫して、今何とかなっているだけで、明日にももう破綻するんじゃ無いか、という綱渡りの状態で日々を過ごしている。
どうしたら継続的に良い状態を保っていけるのだろう。お金はある程度かかることは覚悟している。全額負担でかまわないから…。
でも現実は、公的な支援センターに切られると、代替の場所がない。ネットで調べるといろいろ出てくるけれど、玉石混淆らしいし、娘にどの機関が合うのか判定するのは容易ではない。
そもそもうちは「民間の信頼できる施設を教えてほしい。つないでほしい。」といって支援センターに相談したのだった。でも、民間につなぐシステムがなく、支援センター自体にお世話になることになってしまったのだ。
娘ちゃんのハンデは、私立小学校に通っているという点にもある。
公立なら特別支援学級への通級での取り出しがあったり、合理的配慮があったり、カウンセラーの先生に見守ってもらったりすることが可能だろう。でも、私立の場合はこれらが努力義務としてしか課されていないので、発達障害児へのケアが実質的にないのだ。
民間の機関の対象が、学童よりも幼児への支援が多いのも、小学生は基本的に公立学校とのつながりの中で支援されていくからなんじゃないだろうか。
区立に転校させることはもちろん考えた。でも、支援センターによると、いまどこも定員がいっぱいで、娘のレベルだと通級も不可能かもしれない、というのだ。それじゃしょうがない。
何より、今お友達や先生に恵まれて、毎日楽しく通っているのに、「あなたは障害があるから」といって無理矢理転校させることは、得策ではないように思う。
いや、本当に毎日楽しく通っているのか…、本当は学校での問題行動の多々を、私が気づいていないだけじゃないのか…。
だからこそ、だからこそ、第三者による困り事の認識とケアを継続的に受けたいのだ。
区立のお子さんだって、たまたま学校での担当者とのそりが合わないことってあると思う(発達障害児はすごく「そり」ってあるから)。そういう時のために第二の選択肢として、民間の機関があったほうが良いんじゃないのかな。
障害の程度が軽かったり、グレーゾーンであるゆえの困難が、支援の少なさという点にあると思う。
思ってるだけじゃしょうがないので、また、一から探すんだなー。
ちなみに、服薬は見送っている。夫が反対なんでね。
服薬開始の決断いまだつかず
前回の診察でコンサータの服用を勧められた我々。
私はどちらかというと服薬肯定気味、夫はどちらかというと否定気味、娘ちゃん自体は大反対、とうことで2週間にわたって服薬の決断ができないでいる。
ちなみに登校しぶりは落ち着いている。
いろいろ本やネット情報を調べてみても、ひどく恐ろしい副作用の話から、劇的な効果まで、いろんな体験談が寄せられていて、はっきり言って個人差が大きいのだろう。あまり参考にならない。
ただ、過剰に向精神薬に頼っている昨今のADHD業界の状況への批判は多く見られ、安易に決断はしたくない、という気がする。でも、大人になるまでに服薬で整えてあげて、二次障害を防いだり生活習慣を身につけたりすることが肝、なんていう判断もあって、心はゆれる。
服薬に関するさまざまな意見を集約すると、
- 「10代での服薬こそ大事。やがて発達は追いついてくる」説
- 「服薬より前に環境調整」説
- 「子どもは安易に服薬すべきではない」説
の3つに大きく分かれているようだ。
1.「10代での服薬こそ大事。やがて発達は追いついてくる」説
私が一番悩むのはこれ。ただでさえ困難の多い10代にこそ服薬することで、二次障害を防いだり、学習の遅れ、生活習慣の乱れを改善できる、という説だ。
娘ちゃんは目立った困難がない。授業中に動き回ったりしないし(多動だが授業中はしない)、人付き合いがよく友達多いし、アクティブ。だからこそ、向精神薬まで使わなくても・・・、と思ってしまう。
でも、不注意で、片付けができず、勉強に取り組めず、生活習慣は身につかず、いつもシャツが出ていたり、スカートがめくれあがったりしている。身だしなみが調わないことでバカにされたり、学習が遅れたりしたら・・・、それを防ぐ手立てがあったのに親の判断ミス(服薬しない)で防げなかったら可哀相だ、と思う。
2.服薬より環境調整説
服薬は、環境調整をしてもあまり効果が無かった場合の二次選択で、服薬を第一選択にするべきではない、という説だ。環境調整とは、わかりやすい指示の方法を工夫したり、静かな環境を用意したり、ペアレント・トレーニングで保護者が正しい対応方法を学んだり、ということ。
ただ、環境調整ってどこまでやればいいのかわからない。どこまでやれば服薬のステップに進むべきなのか。ペアレント・トレーニングで教わったことは、堅実に実行しているつもりだけれど・・・。一人で落ち着けるスペースも用意しているけれど・・・。
たとえば娘ちゃんは、私立の小学校なので、支援級への在籍や通級もしていない。今の学校生活を楽しんでいるので転校なんていったら本人が怒り狂うだろうし、児童発達支援センターの見立てでは娘ちゃんくらいの程度では公立小に移っても支援級にはなれない、とはっきり言われたので。でも、これって環境調整が足りない、ってことなのかな・・・。
あと、田舎の広いスペースの方が、ADHDさんには快適だ、っていう話もある。都心のマンションに暮らしているのは環境調整足りないかな・・・。
大家族で人間関係を学ぶのが良いってよく聞くけれど、兄弟つくらないのは環境調整足りないかな・・・、もう年齢的に無理だと思うけど・・・。
どこまでやれば十分な環境調整で服薬の決断をしていいのかが、わからない。
3.「子どもは安易に服薬すべきではない」説
はい。副作用も強い薬ですもんね。当然ですよね・・・。
風邪や、副鼻腔炎や、蕁麻疹では、服薬の決断をこちらに委ねられることなんてない。しかも自分ではなく子どもが飲む薬。しかも、長期の服用になるかもしれない。しかも、決断が長い人生に影響を及ぼすかもしれない。いくら悩んでも結論は出ない。始めてみなければ、合うのかも合わないのかもわからないのかな。踏み出してみるべきなのかな。