【発達障害の排除2】「困った子」という扱いの不条理
先日、中高時代の同級生と久しぶりにゆっくり話をする機会があった。
彼女はとある大学の教員で、学生の総合的なサポートの業務を担っている人物。
私が教員(だった)ゆえか、さりげない会話の中で、「発達障害みたいな学生が紛れこんできちゃって大変なんだよね」との発言があった。
ドキーっとしました。
なぜなら、過酷な受験を経ないと合格できない中高一貫校に長らく勤務してきた私も、同じようなことを言ってきたことに気づいたから。
でも、酷い。これ、酷い。凸凹さんは、凹を必死で凸でカバーして、難関をクリアしたんだよ…。褒められこそすれ、凹のことを非難されても…。もし、これ、他の障害で、例えば「聴覚障害みたいなのが紛れこんじゃって…」って言ったら大問題でしょ。なんで発達障害だけ…目に見えないからって…。いや、そもそも他の目に見える障害だと、明確に弾かれちゃうのか。あれ〜〜〜、これ、大変な排除だぞ。
どうしたら良いのだろう。
学びの入り口が選抜になっている限り、何か特定の困難がある人は、はっきりと「足りない人」になってしまう。劣った人になってしまう。
そして、学ぶ機会が失われてしまう。
公立ではインクルーシブ教育が行われているけど、現実には偏差値による序列と競争が激化していて、首都圏では中受がデフォルトだ。それは、全ての分野でまんべんなく能力がないと戦えない競争が設定されている社会だ。勝てないと、学べないんだ。
娘ちゃん、これ、大変だぞ。
よっぽど特異で優れた指導者にめぐりあうようなラッキーがないと、システムに乗ろうとしたら、弾かれてしまう。
わたし、教員として、今までずっと、この排除に加担してたんだな。
先ほど見たネット記事で
発達凸凹さんは「『困った子』ではなく『困っている子』」という一文に出会った。
必要なのは非難や叱責ではなくサポートだ。どんな場面でも。凹をなんとかカバーできる方法を、一緒に模索すること。そして学ぶ機会を奪わないこと。
ママとして、教員としても、いつも頭の片隅に置いておきたい。